漫画『約束のネバーランド』感想 脱獄編こそが最高だった……

約束のネバーランド 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

今更感もあるが、漫画『約束のネバーランド』の感想を書こうと思う。

2020年末には実写映画も公開し、今月からはアニメ第2期も始まった。正に絶好調な作品なのだが、連載は既に完結しており、最終巻も発売されている。そのため、結末を知っている人も多いだろう。私も実写化・アニメ2期開始のこのタイミングで、今一度全巻を再読した。連載当時、脱獄編に魅了されて読み始めたものの、話が進むにつれて粗末な部分が露わになり、ラスト4巻分くらいは予定調和のハッピーエンドに向けた交通整理にしか思えなかった。記事のタイトルにもある通り、私にとって『約束のネバーランド』は「脱獄編こそが最高だった」のである。

 

 

 

ストーリーの構造について

 

2016年に週刊少年ジャンプで連載が始まり、2018年には「このマンガがすごい!」のオトコ編第1位を獲得。心理戦を主としたサスペンス、女性主人公などなど、ジャンプの王道を逸れた設定が逆に話題を呼び、ページを捲る手が止まらなくなるほどのスピード感が次々とファンを増やした。かく言う私も、脱獄編での目まぐるしく展開される心理戦に興奮し、単行本を買い進めていった。

物語は大きく6つに分けられる。農園からの脱獄を描いた脱獄編、オジサンとの出会い、そして旅立ちを描いたミネルヴァ探訪編、エマ達人間と鬼との戦いを描いたゴールディ・ポンド編、その後の七つの壁探し&シェルター襲撃編、ノーマンと再会するアジト&七つの壁編、最終決戦の王都決戦&GFハウス帰還編。なお、この区切り方は先日発売された設定資料集こと第0巻を基にしている。

 

私が『約束のネバーランド』を読んで最初に想起したのが海外ドラマの『プリズン・ブレイク』だった。もう十五年ほど前の作品だが、当時の海外ドラマブームを牽引した大作として、覚えている方も多いだろう。この作品は文字通りの脱獄サスペンスである。そうはいっても、無実の兄を救うためにIQ200の弟がわざと刑務所に入って脱獄を企てるというガチガチのリアルサスペンスだ。また、弟は刑務所の図面を全身タトゥーにしてくるし、薬物や同性愛者も出てくるしと、対象年齢は『約ネバ』と大きく異なる。だが、『約ネバ』は話の構造そのものが『プリズン・ブレイク』を含めた海外ドラマに酷似しているな~というあっさりとした印象を持った。

 

海外ドラマは日本のドラマとは異なり、1シーズンが大体2クール(約24話)で構成される。Netflixなどの影響でもっと短い作品も出てきてはいるが、テレビ放映用の作品は大体2クールである。しかも、その2クールで1シーズンではあるが、物語はそこで終わらないことが多い。視聴者の反響を経て、シーズン2、シーズン3と約1年おきに新作が作られ続けていく。そして、人気がなくなったりキャストが出演を嫌がったりすると突然終わる。いや、綺麗に終わった作品もあるけどね……。

つまり、海外ドラマは特定の話数で完結することを目的としていないのである。これが1クール(今は大体10話くらいだろうか)で話を完結させる日本のドラマとの大きな違いである。余談だが、日本は2期よりも映画化に話が進むことが多い。

このシステムのため、海外ドラマでは視聴者の「続きを観たい!」という声にとにかく貪欲になっている節がある。シーズン1では敢えて物語の謎を明かさず、「つづく…」という形で終わらせることで、視聴者の声を増やし、続編を作り続けるという独特な商売なのだ。これをクリフハンガーという。これがシーズン単位どころか各エピソード単位で繰り返され、そのことに飽きてしまった視聴者も多いという。

 

『約束のネバーランド』では、そうしたクリフハンガーの引き方が非常に多く、そして見事にそれが功を奏している。脱獄編では毎話毎話、視聴者の予想を裏切るどころか視聴者に予想すらさせないようなテンポ感で物語が進められる。私が一番感心したのは、「内通者がいる」→「ドンとギルダのどっちかじゃないか」→「実はレイでした」→「実はレイは二重スパイでした」という驚くべき展開の連続。真相を生まれた時から知っていたレイの心情はもちろん、3人に必死についていこうとするドンとギルダの気持ちも伝わってくる素晴らしい物語だった。

実際、第0巻では白井先生と担当編集の杉田さんが海外ドラマを参考にしているという旨を話していたので、「あ~やっぱりな」と。余談だが、この第0巻は約ネバ全話を解説するという驚きの試みがなされていて、ファンなら、いやファンでなくとも必見の内容となっている。こういう資料集、完結した全てのマンガで出てくれないかな。

 

ただ、後半ではその海外ドラマっぽさが『約ネバ』の足枷にもなっていた。ここでまた海外ドラマの構造について話すが、海外ドラマは長く続くが故に、初期の設定やキャラクター像が突然消滅したり、と思いきや復活したりということが多々ある。海外ドラマというのは、視聴者を驚かせるためなら何でもやるのだ。とにかく視聴者の目に留まるように、続きを観たいと思わせるために、キャラクターが犠牲になることもある。美しく散っていったはずの仲間が変なタイミングで戻ってきたり、倒したはずのラスボスが実は生きていました、と物語をかき乱したり。勿論そこに理由が全くないわけではないのだが、時折キャラクター性よりも驚きのあるストーリーを重視してしまう。そのせいでキャラクターの心情を無視した急展開が繰り広げられることも多々ある。

 

海外ドラマの手口を使った『約ネバ』も、話が進むにつれてその宿命から逃れられなくなっていた。いたずらに増えるモブキャラクター、大して説明のない攻略法(ミネルヴァのペンや七つの壁、約束などなど)、生きていたママやレウウィス大公。終いにはエマという身勝手な主人公に登場人物全員が大した葛藤もなくついていくようになる。まるで宗教か何かを見ているようで、終盤は本当に気持ちが悪かった(約ネバを好きな方、ごめんなさい)。

 

 

 

 

各編ごとの端的な感想

 

『約束のネバーランド』には、重要なキャラクターが3人いる。エマ、ノーマン、レイだ。GF出身の同年代の天才(フルスコア)3人。理想を語るエマと現実主義者のレイ、そして現実を分かりつつもエマへと気持ちを傾けるノーマン。脱獄編はこの3人のバランスが見事につり合っていた。脱獄は3人(多くても5人)派のクールなレイが、大好きな2人に感化されて結果的には全員(6歳以上)脱獄の道を選ぶ。ノーマンは、犠牲となり、エマは残った仲間たちを救うために新たな冒険へ。素晴らしい物語だった。

そして3人の育ての親であり、一番の敵であるママ・イザベラ。元は食用児でありながら、ママの座に上り詰めた天才。そのイザベラが招集したシスター・クローネ。彼女は顔芸とイザベラを失墜させようとする第三者的なトリックスターの役割を担い、強烈なインパクトを残した。そして3人に追随しようとするドンとギルダ。コニーを助けられなかったことを知ったドンの場面や、嘘をつかれたことに怒るシーンはとても印象的だった。その他の子どもたちも、名前を覚えられるほどではないものの、エマ達の守るべき対象としての役割があり、一人真相を知ってハウスに残ったフィルのなんと勇敢なこと。思えば脱獄編はキャラクター配置、そして各キャラの心情の変化が凄く丁寧で、誰が読んでも引き込まれる作品だったと思う。

 

ミネルヴァ探訪編もまだよかった。子どもたちに味方するソンジュとムジカなる鬼、そして第一印象最悪な大人の人間・オジサンが登場。ソンジュとムジカは最終決戦で重要になるキャラなので、顔見せ程度の役割だった。オジサンはあのぶっきらぼうな感じと名前を明かさない構成で、勘のいい読者なら仲間入りすることが瞬時に分かるキャラクター。思った通りに仲間入りしたので私は少し拍子抜けした。でも、仲間を全て失った後悔と恐怖から逃れられずにいたがエマ達と出会いルーカスと再会したことで元の彼に戻るという話は好き。

 

問題はゴールディ・ポンド編からである。ここでエマだけが狩猟場に連れてこられ、新たな登場人物が一気に登場する。ジリアンやオリバー、ザックなどなど。それぞれ見た目に個性があるし(ジリアンが特にお気に入り)、キャラづけもあるにはあるのだが、いかんせん薄い。全員が鬼への恨みとルーカスへの感謝を忘れずに必死に戦うため、キャラクターの差別化がまるでされていない。敵の鬼もレウウィス大公は背景がきちんと説明されるが、その他の鬼は個性が強いのみ。5体の鬼を子どもたちが倒すというせっかくの本格的バトル展開なのに、ほぼ新キャラなせいで全く気持ちがついていかない。「鬼を倒せてよかったね」以外の感情が湧かない。各鬼にそれぞれ子どもたちが作戦を仕掛けるのだが、それが誰が誰でもいいという皮肉。みんな劣悪肉なのかというくらい没個性的(内面の話)。そして更に悪いことに、ここで登場した多くのキャラクターはその後出番がほとんどなくなるのだ。

 

シェルター襲撃編では、ユウゴとルーカスが大活躍。この二人はかなり扱いに恵まれていた方だと思う。続くアジト編では、ウィリアム・ミネルヴァを継いだノーマンの部下4人が登場。新たな農場で育てられた彼らは鬼にも負けないほどの力を持つ四天王のような存在だが、4人ともノーマン大好き&鬼は絶対絶滅させるというこれまた画一的な心情の持ち主たち。言葉遣いや見た目はバッチリ差別化されているのに、言うことはみんな同じという不気味さ。ラムダの出身はみんなこう洗脳されるのかと本気で怖くなってしまう。

 

そして王都決戦編。今度は鬼側の勢力が次々登場。女王レグラヴァリマ率いる鬼の貴族、五摂家と700年前に五摂家の座を奪われたギーラン。ギーランが失墜した件といい、彼らは一枚岩ではなく、ジャンプによくある四天王感が漂っていたものの、もう終盤なのであっさりと殺されてしまう。勿体ねえと惜しみながらも、でもここで急に長々と鬼の話をされてもきっと違和感があっただろう。人間サイドはエマの一言で全員の行動が決まってしまうので拍子抜けだが、鬼たちはきちんと各々意思を持って行動している点が良かった。

 

総じて言うと、『約束のネバーランド』は、主要キャラ以外には個性がなく、更にエマ以外のキャラは独自の思想を持つことすら許されないという、ディストピアな構造になってしまっている。脱獄編ではエマの優しさとレイやノーマンの行動力が上手く合わさって綺麗な物語になっていたが、それ以降はエマの優しさが逆に作品の良さを殺してしまっていた。ジャンプの主人公だから「誰も殺したくない」を言うのもいいし、ある意味でエマの言葉は一貫しているのだが、問題はエマの価値観が物語上で何よりも優先されてしまうこと。彼女は自分の意見を絶対に譲らない。唯一譲った脱獄編では、2年までに必ず戻るという決意の表れとして見事な幕引きを見せたのに、その後は全く譲らなくなってしまった。きっとここでの譲歩が彼女にとってかなり嫌だったのだろう。GFの皆を助けたいし、他の農園の子どもたちも助けたいし、鬼も助けたい。そんな無茶苦茶な理想論を、何故かみんなエマの不思議パワーで叶えてしまう。

 

『HUNTER×HUNTER』のゴンも似たようなキャラクターだが、ゴンにはネフェルピトーという絶対に許せない敵を出現させたり、その他のキャラクターが平気で人を殺したりと、物語に奥行きがあった(『ハンタ』の魅力はそれだけに尽きないが)。だが、エマはなるべく殺そうとしないし、唯一葬った(つもりでいた)レウウィス大公を殺めたことも気にしないし、他のキャラクターはエマ信奉者だしで、物語が完全に多様性を失ってしまっている。特に終盤、エマとノーマンの意見の対立をどう決着させるか期待していただけに、エマの簡単な説得だけでノーマンが改心し、あろうことか幹部たちまでもがノーマンの意見に従うとなんの反抗もしなかったことが非常に残念である。

 

 

 

 

最後に

 

『約束のネバーランド』を再読して、なんとなくだが「生ぬるい進撃の巨人」だなという印象を抱いた。

『進撃の巨人』も自由を求める主人公の物語だが、駆逐しようとした巨人たちは実は人間であり、自分たちは世界中から疎まれた存在だったという驚きの真実が明かされた。世界を敵に回したエレン達の物語もあと3回で完結するが、『約ネバ』は鬼にも鬼の世界があり鬼の生活があるという似たような展開になった。エマはそこで鬼も救おうと行動をはじめ、鬼の〇〇と約束を結びなおし、人間と鬼の世界を完全に隔てることに成功する。『進撃』はそれができずにみんなが苦労しているというのに、『約ネバ』は様々な点を一気にクリアして最終回へと突っ走った。最後まで読んで思ったのは「エマに会えてよかったね」という味気ない感想だけである。

 

白井先生自身も「キャラよりストーリー重視」という自覚はあるようだし、各話に引きをつくるスピーディーな展開自体は巧いので、もっとキャラクターを描くことに集中してもらえたらなと思う。鬼のバックボーンとか、鬼世界の話とか、ノーマンの孤独な戦いとか、他の子どもたちの過去とか。メインストーリーだけを進めず、もっといろいろなキャラクターに焦点を当て、それぞれに価値観を持たせてうまく動かしていけば絶対にもっと面白くなるはずだ。殺される寸前になって自分の過去やトラウマをぐだぐだ話すだけじゃちょっときつい。話の順序を入れ替えるだけで、『約ネバ』はきっともっと素晴らしくなっただろう。

既に白井・出水タッグで新しい読切も出ているので、新しい連載にも期待したい。

 

好きな方には申し訳ないが、私の中では脱獄編こそがピークで、面白くなり損ねた非常に惜しい作品だった。